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動き出した象を追いかけて

SFCで学び、DeNAで働き、医学生。

生死を分けるのは案外運かもしれない

生理学、感染症学の重めのテストが終わり、ひとときの休息です。とはいえ神経診断学や病理学の症例発表もあり、若干の稼働は必要ですが、少しずつ基礎医学から臨床医学にシフトしていくのを実感する日々です。
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さて、今日は急病で倒れたときの予後の良し悪しは運が占める割合が大きいのではないかという話をしたいと思います。

急病で倒れたら

脳梗塞心筋梗塞などの急病で倒れたとき、その場で救命措置をとり、救急車で搬送され、病院で治療を受けるという流れが一般的なものだと思います。

こうした疾患はいかに迅速に処置できたかで予後が大きく変わるものであって、極端な話をすると病院の横で倒れた場合と山奥で倒れた場合で、予後は大きく変わってきます。

予後を変化させる要素を列挙してみると、
  • どこで倒れたのか(病院まで近いのか、遠いのか)
  • 倒れた近くに人、救命措置のできる人はいたのか
  • 救急車、救急隊の到着時間(すぐ来たのか、時間を要したのか)
  • 近くにあった病院の医療レベルはどうだったのか
  • 緊急手術をした先生のレベルはどうだったのか
といったものが考えられます。

どこにいたのかという地理的要因はある程度コントロール出来ますが、周りに救命措置ができる人がいたのか、飛び込んだ病院の医療レベルや担当の先生の腕がどうだったのかというのは運に委ねざるを得ないように思えます。

なるべく予後を良くするためには

高齢者も増え、急性疾患が増えていくことが予想されるなかで、死にたくない人は行動範囲を病院の近くにしておきましょうというのはまあ無理だと思います。

とはいえ予後が良くないのは、患者当人にとっても、家族にとっても、医療経済にとっても幸せなことではありませんし、予後がなるべく良いものになるように個人レベルでも、社会全体としても出来ることはたくさんあると思います。

個人レベルでは、
  • 家族が救命措置をトレーニングする(BLSのトレーニングはあちこちで開かれています)
  • リスクの高い疾患の初期症状を本人や家族が把握しておく
  • 救急に秀でた病院の比較的近くに住む
また、社会全体としても、
  • 救命措置が行える人・AEDを使える人を増やす(アメリカのシアトルではかなり普及していて、心筋梗塞の患者が救命措置を受けた状態で病院に運ばれる確率が高いそうです)
  • 住民の医療リテラシーを高める(とは言え具体的なアイデアは思いつかない)
といったようなことです。

長々と書いておいて、これを言ってしまうかという話ですが、厚労省調べだと心疾患と脳血管疾患で亡くなる日本人は26.5%(がんで亡くなる人は30.1%)でとても多いとは言えませんし、どんなにリスクをなくそうとしても、リスクはありますし、運次第の部分もあると思います。
しかしながら、リスクが高い人がリスクを抑える方法は薬剤の投与、食生活や運動習慣の改善以外にもたくさんあるのだと思います。

あしなが育英会の募金に申し訳なさを覚えた

テストも山場を迎え、部活と勉強の日々になってきました。少し反発があるかもしれませんが、今日はあしなが育英会の募金について書きます。

先日、駅前のカフェに行こうとしたら、改札前をはじめとして駅周辺で高校生があしなが育英会の募金をしていました。

単刀直入に言うと、両親に恵まれたうえ、わがままを言って2度目の大学生活を送っている自分は兎にも角にも申し訳なさを覚えました。

あしなが育英会は不幸でご両親を失くされた子どもに対する支援を行なっている団体です。

募金は応援や慈悲の気持ちなど、個人がそれぞれの感情を持って行うもので、募金をしたい人がすればいいし、そうでない人は無理にする必要がないものだと思っています。

受け取った方も嬉しいし、募金をした方も純粋な支援の気持ちとともに、良いことをしたという気持ちを覚えるからこそ続くというのが募金なんだと思います。

しかしながら、あしなが育英会の募金は意義や重要性はひしひしとわかるものの、申し訳ないな、募金をしないといけないけど、早くこの場を通り過ぎたい。でも通り過ぎたら通り過ぎたなりの罪悪感を感じる。といったものでした。

社会は支え合う基盤で、個人は支え、支えられます。支える人と支えられる人は時によって変化するものですし、支える人と支えられる人への流れがしっかりとあることはじつに大切なことだと思います。
募金のやり方・あり方についてとにかく言うつもりはありませんし、そこへの示唆を持っているわけではありませんが、支える人から支えられる人への流れは健全でないといけないということが、どうにも頭から抜けないことだったので結論がないなりに書き残しました。

「決める」と「やる」

講義がスタートして1ヶ月弱。座りっぱなしの座学は楽しくもあり、退屈でもあります。

ブログを書き始めてから1年半ほど経ちました。思考整理のために、気の向いたことについて月に一度書いているだけですが、毎月1500以上のアクセスがあり、誰かに届いているのだなと感じます。

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今日は「決める」ことと実際に「やる」ことの違いについて、思考の整理をしたいと思います。

「決める」と「やる」のギャップは何か

頭の中ではこうしようと思っていても、なかなか動くこと・やりきることが出来ない。そんなことがよくあります。
決めることも難しいことですが、実際にその間には大きなギャップがありますし、実際にやり遂げてしまう人は感服します。

医師は医療現場において毎瞬間判断を迫られます。情報を集め、物事を決め、決めたことをやりきり、プロセスと結果を振り返る(俗にいうPDCAサイクルを回す)ことが求められる職業だと思います。

そうゆうこともあり、決めることとやることの間に横たわるものはなにかと、個人的な経験を振り返ると、次の3つに思いました。

1つ目に自信があることです。決めたことに対する成功イメージがあるから自信を抱く、もしくは自分に対する自信があるから、失敗を恐れずに前に進めるのだと思います。逆に自信がなければ、怖くてなかなか攻めることはできません。

2つ目に責任感があることです。当たり前ですが、責任感がないとリスクを背負って、チャレンジすることはできないと思います。
もしくは責任感がなさすぎる人でも良いと思います。責任感がなさすぎるが故にチャレンジが怖くないということも多々あるかと思います。

3つ目に具体的な展開がイメージできていることです。ただゴールが見えているだけではなく、成功までの道のりがイメージできていて、勝算があるからこそ、前に向かって走れるのだと思います。


決めたことをやり遂げれるようになるために

自信をつけること、責任感を持つこと、具体的なイメージを持つこと。どれも到底簡単に身につくことではないと思います。

ただ決めたことをやりきれるように、いくつかの努力は出来るはずです。当たり前のものばかりかもしれませんが、自省のためにも言語化しておきたいです。

結論から言うと、
  • 自分に負けないクセをつけること
  • 自分の中での当たり前の基準を底上げをしていくこと
が全てですが、そのための具体的な方策を以下に書いてみます。

1つ目に小さな成功体験を積むことです。一気に何かを成し遂げられるようにはなれる気がしないので、負担になりすぎない小さなことをクリアし続けて、少しずつ自分の中で「やればできる」という自信を芽生えさせていきたいです。

2つ目に日々の目標をトコトン具現化することです。1つ目にも繋がりますが、何かをやろうとしても着地点を曖昧にしてしまうことが多いので、「帰るまでに図書館でレジュメのここまでに終わらせる」「毎朝8時までには図書館に座っている」といった具合に目標をシーンも含めて具現化するのが大切な気がします。

3つ目は誰かと一緒に進めることです。人は誘惑に弱いので、誰かとともに進めた方が楽だし、楽しいです。

危機感を適度に抱く環境にいることも大切かなと思いましたが、危機感だけでは疲弊して長持ちしないように思えるので、今回は省きました。

というわけで、決めることをいかにやり切れるかという人生の大切な命題を自分なりにまとめてみました。

「上手い見せ方」と「詐称」の境界

ついに花粉症になりました。この微妙に痒くてムズムズする感じが嫌です。

ショーンKの経歴詐称が発覚してから数日経ちましたが、どうも頭から離れません。せっかくなので、今日はショーンK問題から思ったことを書いていきたいと思います。

「上手い見せ方」と「詐称」の境界

相手に伝わりやすいように自分や事象を上手く見せることは一般的に良いことだとされ、詐称することは悪いことだとされますが、その境界はいまいち分かりません。

”Fake it until you make it”と言いますが、実際には出来ないのにも関わらず、実際に出来るようになるまで出来るように見せかけと言い続けることはビジネスの現場でも多々あることで、その線引きは個人のバランス感やさじ加減に委ねられる部分が多いように思えます。

ただあくまでも境界を引くのであれば、
  • 変えることができない過去や現在の事象からカスリもしない主張をする
  • 大多数の他者が違うと判断する
というところに収斂するように思います。

ショーンKに感じたこと

自分がショーンKを初めて見たのは報道ステーションでした。

ハーフ顔の端正な顔立ち、低くてダンディーな声が印象的でした。多くの論者が「中身がないことを言っていた」と揶揄しますし、振り返ってみると新しいことは言ってないように思えます。
しかし、昨今のニューストピックには複雑な背景事情があり、それを整理して分かりやすく伝えてくれるなという印象を覚えましたし、ルックスや声がさらに説得力を強めていました。

ショーンKを「どこかのコンサルタント」としか捉えてなかったので、明らかにリアル感のない学者と比べても遥かに好感度は高かったですし、HBS卒業という経歴を耳にしても何の疑いも持たなかったと思います。(そもそもコンサルタントなんて胡散臭いような気がしますが)

多岐にわたる領域の情報を集め、整理し、理路整然とテレビで話すこと。ネイティブかと思うような英語を話すこと。それらは到底誰にでも出来ることではないですし、そのための努力は実に凄いことだと思います。

ただ、それが出来る人は数少なくとも代替不可能ではなく、経歴の大詐称をしている「ウソつき」であったショーンKに、人前で話す役回りを任せる必要性もなくなってしまったというのが一連流れなのは頷けます。(むしろ彼を起用し続ける、復活の道を与えるメディアがいたら、それはそれで好感を集める気もします)

この時代、ウソをつかずに真っ当に生きたほうがよい

今回の一件を経て、以下の理由から強くそう思います。
  • そもそも罪悪感や不安感が生まれるから
  • 帳尻合わせが難しすぎるから
  • インターネットが普及したから
1つ目の「そもそも罪悪感が生まれるから」ですが、慣れてしまうとそうでもないかもしれませんが、ウソをつくことは罪悪感やバレてしまうかもしれない不安感が伴います。成功しても、そうした感情を抱え続けるのはなかなかしんどいです。

2つ目の「帳尻合わせが難しすぎるから」ですが、ウソをつくということは本当の事象のとある部分を塗り替えるということです。超天才人間であれば大丈夫ですが、どこの部分がウソをついていることか、これまで行ってきたこととの整合性、全体として理路整然としているかなどをパーフェクトにするのはかなり難しく、普通はボロが出てしまうのではないかと思います。

3つ目の「インターネットが普及したから」ですが、インターネットの特徴は情報が残存することや拡散するスピードが広く、速いことだと思います。ネット上に残存していることとウソは対照されてしまうし、表出すれば、その拡散は迅速かつ広域に渡ります。それゆえに、ウソや不確かなことを述べることへの抑止力がますます強まっているように思えます。

悪いことも間違ったことを抱えて生きるのも辛いですし、バレる可能性が高まっているのだから、真っ直ぐ努力するのがやっぱりいい生き方なんだと再認識しています。

大震災と健康はどことなく似ている

無事進級しました。春休みは1ヶ月半ほど経ちましたが、平凡な過ごし方をしており、新しい学期がどことなく近づいている感じです。

今日で東日本大震災から5年が経ちました。

東京の合宿所で、突然大きくて長い揺れを感じ、慌てて机のうえに潜ったこと。テレビで目にした津波が人々の営みを飲み込んでいく光景。
そしてなによりも、地震の3日後にフィンランドからエストニアへ向かうフェリー乗り場で日本人かと聞かれ、Yesと答えた時の哀愁に満ちたドイツ人の表情。今でも鮮明に覚えています。


震災の際は、次起こったときに被害を最小限にしようと防災に関する様々な取り組みが行われたり、個人レベルでも備蓄やリフォームが行った方も多いはずです。

ただ被災された方は決してそうではないと思いますが、一般市民にとってその記憶は徐々に薄れているような気がします。

窮地に立たされているときは「この苦しさを繰り返すものか」「再発防止・予防のためにできることはしよう」と強く思うものですが、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうこともしばしばあります。

熱さを忘れてしまったが故に、次に窮地に立たされたときに後悔する、より被害が甚大になる。それを分かっていても、遠い未来に起こるかもしれないことのために何かを犠牲に出来ない。人間の性です。

こんなことを考えていると、まさに健康に似ていると思わざるを得ませんでした。

将来起こるかもしれないリスクを管理するよりも、近くにある楽しみを優先してしまう人間だからこそ、震災も健康対策も実に難しい。

ウルトラCを模索する動きもありますが、やはりコツコツと地道な啓蒙と予防が大切なんだと思います。

また、震災についても、健康についても、上記を実現するための研究が多く行われていると思います。喉元過ぎれば熱さを忘れるという課題を抱えるものについては、本質が同じような気もするので、相互交流が大切になってくるのではないか、ふとそんなことも思いました。